Sunday, January 7

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 - オイゲン・ヘリゲル

小手先のテクじゃなくて、
弓道を通して禅についてたどり着いた師匠というのは、
すごいなぁと思った。

自我をすて無心になり、
自然への畏怖というかそういう大きな何かについて
思考を巡らせることでの気づきみたいなものが、
禅の真髄なのかもなと思った。

そしてこの名著が名著足らしめているのは、
西洋という極東日本文化の対局にある学者の目と感覚を通して
圧倒的客観性をもって、描かれていることにある。

結構バシバシ師匠に質問している感じで書かれている。

もし日本人の弟子だったらこんなバシバシ質問できず、
やっぱり余白を読むというか、慮る(忖度)する文化に馴染んでしまっているから、
どうしても師匠との関係がそれでは理想形ではないなぁと、躊躇してしまうことだろう。

「それ」にされるようにし、自己を埋没して、
環境と一体になるというところで
佇むことで、何かいろいろなものごとを考えるヒントなのかとも思った。


大戦の少し前の時代に書かれたようだが、
その後、日本とドイツが歩む運命を知ると、
なんとなく切ない。

時代背景を鑑みるとき、
もっと深い師弟のドラマが見えてくるんじゃないかなっておもった。

***

師匠は最初の課題を、弟子を早く芸道者になるよう目覚めさせようとするのではなく、技が素晴らしく出来る人を育てることに置いている。この師匠の意図するところに、弟子は倦むことなき熱心さによって添おうとする。弟子は、まるでそれ以上何も要求されていないかのように、愚直なまでの没頭を課せられているようであるが、何年も経って初めて、自分が完全に使いこなせるようになった形は、もはや束縛とならず、自由になるという経験をするようになる。弟子は日に日に技術的にも苦労なくあらゆる勘に従って行えるようになっていき、また、心をこめて観ることによって、勘が働くようになれる。たとえば、筆を持つ手は、精神が形を取り始めるまさにその瞬間、頭に浮かんできる勘に従って描いているので、結局のところ、弟子にとっては、作品は、精神か、筆かどちらかが生み出したのかはわからないのである。

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ここに、かの「武士道的な」精神の根があります。日本人がこの精神を彼らの独自性としているのは正当なことです。その最も純粋なシンボルは、朝日の光の中で散りゆく桜の花です。静かに、内面の揺らぎもなく、自らを生存から解き放つことができること、これは、その終わりが始まりへと入っていく、あらゆる存在の、唯一ではないとしても究極の意味を実現し、露わにするのです。

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「無私」の態度は、「自己」存在という西洋の文化とは違って、日本人の精神生活を、看過することなく特徴づけているものですが、かんたんに仏教の成果だと見ることは出来ません。その根は、第一に日本人の「民族精神」に見るべきであり、自然と歴史に規定されており、仏教徒関係を持つ以前の時代にすでに力を持って広がっていたものです。仏教が、その影響を及ぼし始めた時、一つの重要な足場が早くも仏教に保証されていたのです。日本民族は、仏教に自らに相応しいものとして、精神的に自らに親和性あるものとして見たに違いありません。そして、この自然に目覚めた日本人の存在様式の根本的な特徴が仏教によって是認されるのを見た上で、それ以降、意識的に依然としてある態度をより深めていくということだけが残っていました。もちろんこれだけでも十分に大きな意味のあることですが。

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リーダーシップやマネジメントに応用できる考えというものはないか・・。

師弟というのは、ひょっとすると悪いことに陥りがちな蛸壺みたいに語られがちだけど、
どうもそれで片さないほうが良いし、
あと、禅的思想をもって、無私の中に、得意先貢献を想うことも
何かヒントになるのではないかと思ってしまう。