Tuesday, August 15

星野源 - Family Song

星野源 - Family Song購入した。

特設サイトに解説が・・
読んだ。

(勝手ではあるが)ぐっと来たところを赤字ハイライトした。

解説:高橋芳朗(音楽ジャーナリスト)

 「ソウルミュージックはアメリカ黒人がつくり出したもので、なによりも〈フィーリング〉を高揚させる音楽である。ソウルはブルースと同じく、リスナーとの経験の共有、つまり聴き手との関係を前提とする。そのうえで、シンガーは聴衆の気持ちを確認し、彼らの思いを解き明かす。この意味において、ソウルは神聖なる儀式という体裁をいまも保っている」
ーークライヴ・アンダーソン、1976年刊行の『The Soul Book』より
『恋』に続く星野源さんの新しいシングルのタイトルが『Family Song』に決定したことが発表になったとき、併せて、その表題曲が家族を題材にした高畑充希さん主演のドラマ『過保護のカホコ』の主題歌になることが明らかになったとき、そこには星野さんのこんなコメントが添えられていました。
「脚本を読ませていただき、家族をテーマにしたソウルミュージックにしたいと思いました」
その時点では、まだ『Family Song』という曲の断片すら耳にしていませんでした。でも、もうこの一文だけで快哉を叫びたくなるような、そんな気分にかられました。いろいろなアプローチが考えられるなか、家族を歌うにあたってソウルミュージックを選択した星野さんの決断が、無性にうれしかったのです。
というのも、僕にとって「ファミリー」という言葉はほとんどソウルミュージック用語みたいな感覚があるからです。その理由はいくつかありますが、なんといっても、ソウルミュージックには家族をテーマにした曲がたくさん存在していることが大きいです。シスター・スレッジの『We Are Family』、オージェイズの『Family Reunion』、そのものずばりなヒューバート・ロウズの『Family』も大好きなナンバーです。
ただ、ここで強調しておきたいのは、ソウルミュージックで歌われる「ファミリー」は多くの場合、単なる家族以上の意味を含んでいます。博愛のニュアンスが込められていることもあれば、連帯や団結をうながすメタファーとして使われていることもあるし、なかには「愛」と置き換えても違和感がないようなものもめずらしくありません。
おそらくこれには、ソウルミュージックの成り立ちが関係しています。ソウルミュージックは1960年代に黒人差別の撤廃に向けた動きのなかで発展していった背景がありますが、抑圧のなかで人種統合に期待を寄せていた人々の理想的な共同体、その結びつきを言い表すのに最もふさわしい概念のひとつが「ファミリー」だったのかもしれません。黒人のコミュニティでは血縁がなくても同胞を「ブラザー」や「シスター」と呼び合う慣習がありますが、これも大いに関連してくる話でしょう。
ブラックミュージックの超重要人物、スライ・ストーンは1967年に人種/性別混成のバンドを結成しますが、その名前が「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」だったのは、そう考えるとなんとも示唆的です。こうした背景のもとに確立されていったソウルミュージックという音楽は、アメリカの黒人カルチャーの豊かな包容力と寛容性のシンボルといえるでしょう。
星野さんの『Family Song』についてのコメントを目にしたとき、真っ先に考えたのはそういうことでした。それを星野さんに打ち明けると、彼はこんな話をしてくれました。
「家族について歌詞を書いていると、ほぼ〈愛〉と同義なんじゃないかっていうのはすごく思いました。結局は愛の歌を書いてる感覚なので、いろいろ取っ払って本当の真心で書いたら、すぐに歌詞ができあがったんです」
実際に耳にした『Family Song』は、これまで僕が聴いてきた数々の「ファミリー」を題材にしたソウルミュージックと同じように、やはり広義での家族の歌でした。星野さんは、曲のなかでこんなふうに歌っています。「出会いに意味などないけれど 血の色 形も違うけれど いつまでも側にいることが できたらいいだろうな」と。『Family Song』を歌うにあたって「家族」と対峙した星野さんが導き出した結論は、この一節に集約されていると考えています。
「家族やファミリーって、めちゃくちゃポピュラーな言葉じゃないですか。ちょっと普遍的すぎるというか。それをなんとなくの印象ではなく、この機会にちゃんと考えてみたくて。そんななかで、前回の『恋』のときに題材にした恋愛と同じように、家族というものもどんどんかたちが変わってきていると思ったんです。恋愛のかたちが変わっていくのにしたがって、必然的に家族のかたちも変わってきますよね。これからは両親が同性の家族も増えてくるだろうし、そういう多様化のなかでちゃんとそれを受け止めるだけの器の大きい〈これからの歌〉をまたつくりたくて。もう血のつながりとか一緒に暮らしているかどうかとか、そもそも人間かどうかっていうのも関係ないんじゃないかって思えてきたんです。そういうことを考えながら〈なにが家族なんだろう?〉って思ったとき、相手のことを心から無事であるように願ったり、少しでも幸せであるようにと、何の見返りも求めず思える、そういう関係を家族というのだろうと思って歌詞を書きました」
この星野さんの発言にほのめかされているように、『Family Song』は前シングルの『恋』と地続きで、そして『恋』で訴えたことのさらに先の景色を歌っています。星野さん曰く「すべての恋にあてまるラブソング」であった『恋』は、世界規模でのLGBT権利運動の高まりに呼応するメッセージを含んでいましたが、今回の『Family Song』もまた現在の社会情勢に強い影響を受けた痕跡がうかがえます。ここで「あなたは何処にでも行ける あなたは何にでもなれる」と歌う星野さんが試みようとしているのは、閉塞感や息苦しさで満たされたこの世界に一縷の光を灯すこと。先ほどソウルミュージックについて「黒人カルチャーの豊かな包容力と寛容性のシンボル」と書きましたが、まさに『Family Song』はそんなソウルの本質に触れるような曲なのです。
「いまの世の中の息苦しさ、殺伐としながら怒る先を探してる感じというか、そういう雰囲気にうんざりしてたっていうのはありますね。主にメディアから発せられるものに対して息苦しさを感じていたので、ホッとするような歌をつくりたいという気持ちがありました。温かくなるような、なにか大きなものにハグしてもらっている感じというか。そういった安らぎのような部分と、ドラマの主題歌として古いソウルミュージックを今の歌としてやることの過激さ、両方のおもしろみを両立できたらと考えていました」
ソウルミュージックを通して家族について歌うことは、すぐに決まりました。そして、改めて「家族」に正面から向き合った結果、どんなことを歌うべきかもわかりました。問題は、それをどうやって鳴らすか、です。
星野さんは『Family Song』で目指したサウンドについて「1960年代末から1970年代初頭のソウルミュージック」と明言していますが、さらにそんな往年のソウルミュージックを「ヴィンテージエフェクトの効果に頼らず、現在の日本に、日本的に立ち昇らせる」という、とてつもなく高いハードルをみずからに課しています。
「今回はずっとやりたかったことが実現できて〈やったぜ!〉って感じなんですけど、実はシンバルを一切入れなかったんですよ。打ち込みでシンバルが入っていない曲、たとえばテクノやエレクトロなんかではそういう曲もたくさんあるんですけど、生演奏の日本の音楽でクラッシュシンバル、ライドシンバルが入ってない曲はほとんどないと思います。特にJ-POPでは。でも、海外のR&Bやソウルミュージックでは普通にたくさんあって。それはなぜなのか、なぜ日本人はシンバルを叩くのか、というのはずっと考えていたんです。今回古いソウルミュージックのニュアンスを追求するうえで大事な部分、鍵になっている部分はまさにそのシンバルを入れないというところで、あのなかにシンバルを入れると途端にJ-POPになるんです。だから〈古いソウルミュージックのニュアンスを追求すること〉と〈シンバルの入っていない曲をつくること〉という自分がやってみたかったことが見事に合致して、やってみたらいきなりあの雰囲気に近づいたところがあって。ただ、シンバルを入れないだけでめちゃくちゃ不安になるんですよ。そこでシンバルがないのを寂しくないようにするにはどうすればいいのか、いろいろ試しながらつくっていきました」
現代のテクノロジーを駆使すれば、レトロなサウンドも本場のサウンドも、わりとたやすく再現できるはずです。ただし星野さんは、今回に限らず「本物のブラックミュージックに近づけていくこと」をさして重要視していません。彼が『YELLOW DANCER』のレコーディングを回想して「ブラックミュージックとJ-POP、とにかくその両方の手綱を離さないまま絶対に最後までいってやるんだ」と話していた、その執念の言葉が強烈に印象に残っているのですが、星野さんが意義を見出しているのはブラックミュージックを血肉化して、あくまでそれを「J-POPのなかで説得力のある音として鳴らすこと」なのです。
「ノスタルジックなだけになっちゃうのがあんまり好きじゃないんですよ。ラファエル・サディークみたいな、いまの黒人アーティストがやるのはすごくいいと思うんです。でも、日本人の僕がやるとなると急に陳腐になってしまう。リスペクトはあるけど、民族的な魂がつながっていないのに安易にやるのはちょっとどうかと思うし、そこは徹底しなくちゃいけないと思っています」
星野さんが『YELLOW DANCER』のリリースを機に標榜するようになった「イエローミュージック」というコンセプトは、まさにそういうことです。ブラックミュージックを日本人である自分のフィルターを通してイエローミュージック化することは、現在の星野さんの音楽活動の最大のテーマになっていますが、それはもっと噛み砕いて言うならば、本場のソウルミュージック/ブラックミュージックを自分たちの生活圏内に引き寄せること、と考えていいと思います。
これに関しては、ソウルミュージックの確立とほぼ同時期の1960年代にアメリカで定着した言葉「ソウルフード」を例にして考えればよりわかりやすいかもしれません。ソウルフードはもともとアメリカ南部の黒人のあいだで発展してきた伝統料理の総称でしたが、いまでは国や人種を問わず「地域/生活に根ざした料理」として普遍的な意味を持つようになりました。星野さんが『Family Song』でやろうとしていることはそれと同じように、アメリカの黒人カルチャーから生まれたソウルミュージックを日本人の生活に根ざした音楽に落とし込むこと、ソウルミュージックを我々日本人にとっての庶民の音楽として鳴らすことなのです。
「J-POP的なものはコード進行とメロディーのなかにたくさん込めたので、それでもう十分だろうと。だから、そこはアレンジとメロディーの融合が不自然でさえなければおのずとJ-POPに向き合えるものになるだろうという確信はありました。ソウルミュージック的なメロディーというのは、今回はほとんど入っていないんですよ。メロディーでニュアンスを追求することって、J-POPからは限りなく離れていくことになってしまう。自分がつくったメロディーはそういうソウルミュージック的なものとは対極にあるんだけど、〈でもなんか合いそうな気がする!〉という微かな予感と希望を頼りに試行錯誤していくような、そういう作業でしたね。ただ、そういうなかで作業を繰り返していると、自分でもよくわからなくなってくるんですよ。これがどういうニュアンスで受け取られるのか、普通にJ-POPとして受け入れられるのか、そういう昔のソウルミュージックが香るものになるのだろうか、もうまったくわからなくなっちゃって。だから、聴いてくれた人に〈ソウルだね!〉って言われたときは〈よかったー! ありがてー!〉みたいな(笑)」
『Family Song』で星野さんが成し遂げた日本の情緒とソウルミュージックのぬくもりとの絶妙なフィッティングは、いきなりピンク色の多幸感で曲を染め上げる冒頭の星野さんのアドリブを通過したあと、すぐに実感できると思います。そして、歌が「救急車のサイレンが 胸の糸を締めるから 夕方のメロディに 想い届けてくれないか」という一節に差し掛かったとき、あるいは、クライマックスでゴスペルタッチのコーラスと共に曲が秘めていた豊かな包容力が一気に立ち上がってくるとき、「1960年代末から1970年代初頭のソウルミュージックを、現在の日本に、日本的に立ち昇らせる」という星野さんの目論見が完璧に達成されたことがよくわかると思います。
アメリカ人作家のピーター・ギュラルニックは1986年に刊行した著作『スウィート・ソウル・ミュージック』において、ソウルシンガーのパーシー・スレッジが『When a Man Loves a Woman』で全米チャートを制した1967年当時の興奮をこんなふうに綴っています。「現実離れした寛大さと黒人の連帯とを表現する曲がついに登場した」と。
それから、ちょうど50年。太平洋を隔てた国で、本場とはちがう独自の解釈のもとにつくられたソウルミュージックにも、核にある寛大さはしっかりと継承されています。それは作者である星野さんの言葉を借りるならば、多様化のなかで、ちゃんとそれを受け止めるだけの、器の大きい、「これからの歌」です。ソウルミュージックを通して「ファミリー」を歌うことは、必然だったのです。
それなりの長い文章に付き合ってもらっておいて最後にこんなことを言うのは申し訳ないのですが、実をいうと、ここまで書いてきたようなことは基本的にすべて『Family Song』のミュージックビデオに落とし込まれています。このビデオは、もしかしたら一見奇をてらったように映るかもしれませんが、曲に託された意図が細部にわたってここまで徹底的に映像化されたものはなかなかお目にかかれないと思います。星野さんが『Family Song』でどんなことを表現しようとしているのかを知りたければ、このビデオをじっくり繰り返し見ればきっと理解できるはずです。
「まず、これからの時代のスタンダードになるであろう多様で自由な家族像を、演じているキャラクターと中のひとの性別をぐちゃぐちゃにしたことで、無意識にでも感じられればと思いました。かつ、この『サザエさん』的古き良き家庭観を日本のトップランナーである吉田ユニのアートディレクションの美術世界に入れることで、ノスタルジーでなく過去からつながった〈いま〉の最先端として表現したかったんです。ちなみに、『サザエさん』のTVアニメが始まったのは実は1969年。そして、同じ1969年に発売された筒美京平さん作の『サザエさん』の主題歌には、モータウンの影響を感じます。楽曲で目指した〈60年代末から70年代初頭のソウルミュージック〉という部分に偶然にもピッタリはまるんです。これからの家族の歌であるということ、借り物ではなく自分の場所のソウルミュージックであること、すべてのコンセプトが、意図せずに企画した〈あの番組〉を再現することでつながるという。もちろん、その出演者でもあった高畑充希さんが主演しているドラマの主題歌であることもすべてつながるんです」
『恋』をきっかけに星野さんの大ファンになった3歳の娘は、もうすでに親のスマートフォンを奪い取って「ほしのさんのおかあさんのやつー」と『Family Song』のミュージックビデオを見せるようせがんできます。そして、娘が不思議そうな顔で女装した星野さんの姿を見つめてこれはどういうことなのか説明を求めてくるたび、痛感させられるのです。星野源というひとは、伝説をつくることにとことん自覚的な方なのだな、と。