Thursday, February 23

サピエンス全史 - 文明の構造と人類の幸福 - ユヴァル・ノア・ハラリ

ついに読んでしまった。
かのザッカーバーグが2016年の本に選んだと言われる本。

こんなチートな人間の過去と未来の入り口まで書かれた
本があったいいのかというのが第一印象。

とにかく読んでよかった。

いまを生きていると、勘違いする。
もうこれ以上歴史は変わらないって。
対して、大きく変わらない歴史なんだって。

でもそんなことないんだってこの本が教えてくれる。

いま「常識」であることだって、
自分達、人が作り出した概念のトレンドに乗っているだけ
って考え方で、ものごとを見ていくと、目の前がひらけていく感じ。





とりあえず、本を読んですごいなぁと思ったり、
感心した内容のところ、あるいは難しい内容だけど、
何度も見返したら、いつか答えがわかりそうなことについて、
クリッピングメモを作っておく。

しかし、「効率的なもの」が勝利する社会は、必ずしも自由な競争を実現しない。その「効率」は少なからぬ場合、資本投下によって生み出されているからだ。多くの資本を投下されたものが、望ましい効率性を身にまとい、市場で生き残り、そこで蓄積された富が次の効率性を生産する。企業は国からさまざまな優遇措置を受けて、子は親から高い教育費をかけてもらって、初めて市場的な優位を獲得している。 
今日でさえ、人類のコミュニケーションの大多数は、電子メール、電話、新聞記事のいずれかの形にせよ、噂話だ。噂話はごく自然にできるので、私たちの言語は、まさにその目的で進化したかのように見える。 
二十一世紀は、もはや労働は苦役ではなくなり、まるで遊びのように働く楽しみが広がる時代と言えるのではないでしょうか。 
もくろみが裏目に出たとき、人類はなぜ農耕から手を引かなかったのか? 
歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。 
私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効率的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。 
ロマン主義的消費主義の神話を心の底から信奉しているからだ。ロマン主義は、人間としての自分の潜在能力を最大限発揮するには、できるかぎり多くの異なる体験をしなくてはならない、と私たちに命じる。 
消費主義は、幸せになるためではできるかぎり多くの製品やサービスを消費しなくてはならない、と私たちに命じる。 
サピエンスの社会秩序は想像上のものなので、人類はDNAの複製を作ったり、それを子孫に伝えたりするだけでは、その秩序を保つのに不可欠な情報を維持できない。 
可能なことは何であれ、そもそも自然でもあるのだ。 
一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。それに対して、仏教の第一原理は、「苦しみは存在する。そこからどう逃れるか?」だ。 
文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。 
科学研究は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることができる。 
そして近代に入ってようやく、この罠から逃れる方法が見つかった。将来への信頼に基づく、新たな制度が登場したのだ。 
資本主義は「資本」をたんなる「富」と区別する。資本を構成するのは、生産に投資されるお金や財や資源だ。 
今日では、富は主に、人的資源や技術的ノウハウ、あるいは銀行のような複合的な社会経済組織から成る。その結果、そうした富を奪い去ったり、自国の領土に併合したりするのは困難になっている。 
戦争は採算が合わなくなる一方で、平和からはこれまでにないほどの利益が挙がるようになった。 
何にも増して重要な発見は、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。 
幸せかどうかが期待によって決まるのなら、わたしたちの社会の二本柱、すなわちマスメディアと広告産業は、世界中の満足の蓄えを図らずも枯渇させつつあるのかもしれない。 
人間の体内の生化学システムは、幸福の水準を非アック的安定した状態に保つようにプログラムされているらしい。幸福そのものが選ばれるような自然選択はけっしてない。 
未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。

と、こんなにも多くのクリッピングをしていたのだが、
ことあるごとにもう一度読んで、その内容を咀嚼していきたいと思った。

幸せってなんだっけって、これからもよく考えて、
まぁそれを枯渇させようとしている産業に所属しながらも、
社会のインフラとして、楽しく仕事をしようと思った。

(最後は、なかなか皮肉な文章になってしまった)